目が覚めたのは、見覚えのない部屋だった。
横たえられていたのは、質素だが清潔な寝台である。 壁の数カ所に据え付けられた燭台(しょくだい)の蝋燭(ろうそく)には、柔らかな炎が揺らめいている。 ──自分は一体、どうしてしまったのだろう。 疑問に思いながら彼女は身体を起こす。 「気がついたかい? 急に倒れるから、主様驚いてたんだよ」 声が聞こえた方に視線を向けると、そこには人好きのする笑顔を浮かべた、ややふくよかな女性が座っている。 先程やって来たベヌスの巫女という人だった。 「ここは、どこですか?」 恐る恐る尋ねる彼女に、女性はころころと笑った。 「神殿の奥の間だよ。私達、みんなここに住んでるんだ」 そうですか、とつぶやいて、彼女は部屋を見回した。 無駄な装飾のない、簡素な部屋だったが、粗末に扱われていると言う訳ではなさそうだった。 「あんたは巫女さんとしてここに来たんだね?」 そう問われて、彼女はうなずく。 「その様子だと、あんたも故郷から脅されて来たんだね? べヌス様は恐ろしい方だって」 再び、彼女はうなずく。 と、女性は納得したようだった。 「そりゃあ、そうさ。この世界を支える偉大な神様のお一人だもの。知らない人から見たら、ねえ」 その言葉につられて、彼女はうなずく。 さもおかしくて仕方がない、とでも言うように笑いながら、女性は室外に声をかけた。 「だそうですよ、主様。やっぱり主様は少々誤解されているみたいですよ」 驚いたように彼女はその方向を見める。 果たして、いつの間にか部屋の戸口にはべヌスが佇んでいた。 「……マルモ、手間をかけた。下がっていいぞ」 はいはい、と言いながら笑いを噛み殺して女性……マルモは立ち上がり、べヌスに向け一礼するとその場を後にする。 入れ替わりに室内に入ってきたベヌスは、寝台のかたわらに立つと、腕を組みどこか決まり悪そうに言った。 「……大事ないか?」 声をかけられて、彼女はわずかにその身を固くしたが、目を伏せたまま答える。 「はい……先程は、お恥ずかしい姿をお見せしたばかりか、お手をわずらわせて、何とお詫びを申し上げれば……」 「いや……。それよりも」 彼女の言葉を遮ると、ベヌスは椅子を引き寄せて腰を下ろす。 そして、彼女の表情をうかがいながら静かに切り出した。 「……そなたが吾がそこまで恐ろしいと思うのであれば、そなたの役目を解いて国元に戻しても良いが、どうだ? 」 と、彼女の目にはみるみる涙が溜まり、ついにはこぼれ落ちた。 何が起きたのかわからず慌てるべヌスに対し、彼女は涙声で言った。 「わたくしは、親の顔を知りません。育った村の長老の話によると、村はずれの祠の前に捨てられていたそうです」 恐らくはこの目を見た両親が、人知れず近隣の村まで出向いて捨てていったのだろう。 そう告げると、彼女はうつむきその顔を嗚咽をこらえるように両手で覆う。 「拾われて、村の聖堂に預けられ幸いにも命をつなぎましたが、人々は化物でも見るようにわたくしに接しました。この稀有な目の色のせいで……」 そう。この闇の領域に住む人々は、多くが黒またはそれに類する暗い色合いの髪と瞳を持つので、青い目を持つ彼女を忌避し、かつ極めて珍しいものとして闇の神たる自分に捧げたのだろう。 べヌスはそう理解した。 「……辛い思いをしたな。だが、これだけは言っておく。そなたのような色の瞳を持つものは、この世界にはごまんといる。決して忌み嫌われるものではない」 べヌスの言葉に、彼女は驚いたように顔を上げる。 信じられない、とでも言うように見つめてくる女性に、ベヌスは語りかけた。 「信じられぬかもしれんが、闇の領域の外には金や銀の髪を持つものもいる。それに比べれば、瞳の色など些細なことではないか」 それでもなお得心がいかない様子の女性に対し、ベヌスは困ったように長い黒髪をかき回す。 「ふむ、言葉だけでは到底信じられぬか」 「滅相もございません。偉大なる神を疑うなど……」 慌てた様子の女性に、ベヌスは笑った。 何事かと瞬く女性に対し、彼は穏やかな口調で問いかける。 「ようやく吾の顔を正面から見てくれたな。どうだ、まだ吾が恐ろしいか? 」 一瞬の沈黙の後、女性はわずかに目を伏せ首を左右に振った。 「ならば、ここに残り吾のために勤めてくれるか? ……と……」 その時、ベヌスはまだ彼女の名を聞いていないことに気がついた。 改めてその名を問うと、彼女は消え入りそうな声で言った。 「わたくしの名は……アウロラと、申します」婀霧とディーワ、両者の叫びがベヌスの耳に届いたかどうかはわからない。 けれど、真紅の沼に膝を付くべヌスは嗤っていた。 光を失いつつある漆黒の瞳をディーワに向け、呪いの言葉をつぶやく。 「以後、闇は安息をもたらすものにあらず。人々に恐怖をもたらすものとなろう。恨むなら自身を恨め、光神よ……」 言い終えると同時に、ベヌスの身体は崩れ落ちる。 赤い沼に倒れた身体は、程なくして黒い霧となり四方へと散っていった。 「……これは一体?」 驚きの声を上げる婀霧。 一方ディーワは、一部始終を見届けると重いため息をついた。 ──その身は滅びても、精神はこの世に遺すか。それほどまでに……── 私を恨んでも恨みきれぬ、という訳か。 そう吐き出すように言うと、ディーワは目を閉じ頭を揺らす。 ほぼ同時に、その輪郭は揺らめき消えていく。 水の結晶の効力が切れかけているのだ。 「待ってください、大主! 私達はどうすれば……?」 光神の全権代理人たるカイは、その任を放棄して去った。 その言葉が本心であるならば、戻ってくることはないだろう。 ──これ以上……流血は、無用。婀霧、そなたが……に代わって……── 途切れ途切れに聞こえてくる言葉を耳にした婀霧は、思わず大きな声を上げる。 「私が? 私に和議を結べと? それは……」 あまりにも荷が重い。 自分より相応しい者がいるのではないか。 そう固辞しようとした婀霧だったが、伝える前に光神の姿は光の粒となって霧散する。 同時に水の結晶は内包していた力を使い果たし、ひび割れれ粉々に砕け散った。 残された婀霧はしばし呆然と立ち尽くしていたが、すぐに我にかえり周囲に視線を巡らせた。 ブイオ攻略戦の折の犠牲者が納められた無数の棺。 和議を結ぶのであれば、彼らを家族の元へ返さなければ。 そして。 婀霧は、アウロラとベヌス、二人分の血を吸った短剣を拾い上げる。 未だベヌスの血で赤く染まっている刃をマントで拭うと、アウロラの棺のかたわらに膝を付く。 そして、改めて短剣をアウロラの手に握らせてやった。 「巫女殿、あなたの思いは、私が引き継ぎます。闇の領域と和議を結んで、この争いを終わらせます」
べヌスの視線を受けてもなお、ディーワは何も語ろうとしない。 そんな『友人』に向かい、べヌスは絞り出すように言った。「そう、なのか? そなたは吾を亡きものにしたいほど、忌み嫌っていたのか?」──それは違う! ── ようやくディーワは声を上げる。 その目は珍しく鋭く輝き、アルタミラを名乗る少女を見据えている。──私をそそのかし戦を起こさせて、何が楽しい? ──「そそのかすですって? 私は一つの可能性を示しただけ。行動を起こしたのはあなたじゃない」 ばさり、という羽音と共に、アルタミラは翼を羽ばたかせる。 同時に身体は中空に浮かぶと、夕闇色の光を放つ。「待て! 話はまだ……」 咄嗟にべヌスは立ち上がり、アルタミラを捉えようとする。 だが、彼の手が少女に触れる前にその姿は混沌の中へと溶けていった。 唖然として何もない空間を見つめるべヌス。 その背に向かい、ディーワは静かに語りかけた。──……あの少女の口車に乗せられ、行動を起こしてしまったのは私の咎だ。どんなに謝罪しても足りぬことはわかっている。しかし……──「……そうだ。もう遅い」 けれど、その言葉に対しべヌスは振り返らなかった。 そのまま倒れ伏す婀霧に歩み寄ると、息があることを確認する。 そして、その身体を横たえながら静かな口調で告げた。「そなたの忠臣は無事。気を失っているだけだ」 ようやくべヌスはかつての友をかえりみた。 漆黒の瞳からは、いかなる感情も読み取ることはできなかった。──ベヌスよ、私は……──「言い訳ならば、聞きたくはない。吾の目の前にあるのは、現実だけだ」 その時、ベヌスの目か
水の結晶は、カイの力に呼応するようにちかちかと瞬き始める。 そしてまばゆい光を放つと、それは光神エルト・ディーワの像を結んだ。 その姿を一瞥すると、カイは冷たくこう言い放った。「さっきも言ったとおりだ。俺はもうあんたの道具にはならない。自分でカタをつけてくれ」 言い終えると、カイは腰に履いていた剣を投げ捨てる。 唖然とする一同の視線を背に受けて、カイは振り返ることなく大広間を出ていった。 ディーワとべヌス、そしてやや離れた所に控える婀霧、三者の間にはしばし嫌な沈黙が流れる。 べヌスは現れたディーワの虚像とは目を合わせようとせず、冷たくなったアウロラを見つめるばかりである。 その様子に、婀霧は意を決したように息を飲むと、かすれる声で切り出した。「……最期の時、巫女殿はこうおっしゃいました。陛下にお仕えできて幸せだったと」 瞬間、べヌスの身体がぴくりと動いた。 ゆっくりと顔を上げると、漆黒の瞳を婀霧の方に巡らせる。「……まことか?」 無表情なべヌスの声に、婀霧はうなずく。「こうもおっしゃっていました。いつか必ず、あなたの元へ、と」 言い終えるやいなや、婀霧はうなだれ声を上げて泣き始める。「本当に、申しわけありません。私が……私がもう少し早く巫女殿の元に駆けつけていれば、こんなことには……」 けれど、べヌスは目を伏せゆっくりと頭を左右に振った。「そなたのせいではない。気に病むな。すべては……」 ひとたびべヌスは言葉を切った。 アウロラに視線を落とすと、べヌスは静かな声で告げた。「吾の咎だ。吾が……」 言うと同時に、一筋の涙がべヌスの頬を伝い落ちる。 武神べヌスの涙
昼間幾多の生命が散っていった平原を、月明かりが照らしている。 その中を、漆黒の駿馬が駆け抜ける。 乗り手は言うまでもなく闇の神にして王たるべヌスである。 彼が目指しているのは、ブイオの砦。 敵の手に落ちたその場所へ一人で行こうとする彼を、ノクトを始めとする重臣達は止めた。 確かに使者からもたらされた書状にも、一人で来いとは書いていない。 けれど、べヌスは頑として首を縦に振らなかった。 その理由は、アウロラにある。 彼女はただ一人光神の本陣で、諸将と対峙したのだ。 神であり王である自分が、一介の巫女である彼女にさせてしまったことをしない訳には行かない。 そんな矜持と後悔の念が、べヌスをとらえていたのである。 こういった理由で、彼は一人ブイオへ向かっていたのである。 やがて視線の先に、陥落した砦が浮かび上がって見えた。 かつては夜通し明かりが焚かれていたその砦も、今は黒い塊にしか見えない。 飛び降りると、べヌスは手近な杭に馬を繋ぐ。 そして、静まり返るかつての砦に向かい呼びかけた。「弟御、来たぞ。どこにいる?」 と、暗がりの中からぼんやりと明かりが近づいてくる。 思わず腰の剣に手をかけ身構えるべヌスの前に現れたのは、甲冑姿の女性だった。 あの人は、確か……。「わざわざのお出まし、感謝いたします。私は弟君の補佐役……」「……婀霧、だったか?」 その一言で、婀霧は凍りついたように立ち尽くす。 それほどまでに自分は恐ろしい顔と声をしていたのだろうか。 べヌスは取り繕うべく何か声をかけようとしたが、うまく言葉が出てこない。 小さく吐息をもらすべヌスを前に我に返ったのだろうか、婀霧はあわてて一礼する。「失礼いたしました。弟君がお待ちです。どうぞこちらにお越しください」
胸騒ぎを感じて、カイは手綱を引いた。 一瞬闇の軍勢が迫っているのかと思ったが、これは敵意ではない。 儚げで悲しげで強い意志がその原因であることに気が付いて、カイは思わず周囲を見回す。 そのような存在は彼が知る限りただ一人、闇の巫女アウロラである。 だが、本陣に拘束したその人がこの戦場にいようはずがない。 その時だった。 かたわらを固める兵達が、上空を見上げている。 中にはある一点を指差している者もいた。 何事かとカイはそちらに視線を移す。と、遥か上空には使者の証である薄藍の布が、糸の切れた凧のように漂っている。 なぜこのような所に。 疑問に思いながらも、カイは風上に視線を巡らせる。 その方向にあるのは他でもない、陥落したブイオの砦だった。 胸騒ぎが、嫌な予感に変わる。 そこからとって返したい衝動に駆られたが、今は戦の真っ最中である。 総大将がそのようなこと、できようはずがない。 そのカイの苛立ちにも似た内心を悟ったのだろうか、脇を固める重臣達が口々に言った。「弟君、いかがでしょう。そろそろ退かれては……」「我々の力を知らしめるのには、もう充分なのではありませんか?」 一瞬ためらった後、だがカイは首を左右に振る。 相手が防御に徹しているのは、必ずしもこちらが圧しているからではない。 べヌスがあえて防戦に全兵力を傾けていることに、カイは気が付いていた。 その証拠に、派手に戦闘が行われている割には、双方の犠牲はさほど出ていない。 ここで退いてしまっては、自分にとっては最良の結果ではあるが、兄である光神は納得してくれないだろう。 さてどうするか。 カイが決断を下しかねていた、その時だった。彼方から、甲高い音が聞こえた気がして、カイは長い耳をぴくりと動かす。 神経を聴覚に集中し、研ぎ澄ませる。 途切れ途切れに聞こえてくるのは、伝
陥落したブイオ。 建物のそこかしこには、何本も矢が刺さっている。 火矢を射掛けられたのか、焦げたような臭いがかすかに漂っていた。「着きましたが……。一体何をされるおつもりですか?」 未だ真意をはかりかねている婀霧の手を借りて、アウロラは馬から降りる。 そして地面に降り立つなり、婀霧に向かい深々と頭を垂れた。「ありがとうございました。この御恩は決して忘れはいたしません」 しかし対する婀霧は、まだ何が何だかわからないとでも言うように首をかしげる。「御恩も何も……。こんなところへ来て、これからどうするおつもりなのですか?」「わたくしは、わたくしにかせられた役目を果たすだけです。婀霧様はどうか、自陣へお戻りください」 弟君には、わたくしから脅されてこのようなことになったと言っていただいて構いません。 そう言ってアウロラは寂しげに微笑んだ。 呆気に取られて立ちすくす婀霧に会釈をすると、すっかり荒れ果てた砦の奥へ向かって歩き出す。 しばし婀霧はその後ろ姿を見送っていたが、武人の勘とでも言うべき何かだろうか、妙な胸騒ぎを覚えた。 次第に小さくなっていくアウロラに向かい、あわてて声をかける。「巫女殿? どちらへ?」 無論、返事が返って来ようはずがない。 言いしれない不安を感じ、遂に婀霧もアウロラを追って砦の中へと足を踏み入れた。 ※ 陥落した砦である。 当然そこかしこには、打ち捨てられた兵の遺骸が転がっている。 上空では猛禽達が旋回し、嫌な鳴き声を上げている。 こんな不気味なところに、あの巫女は一体どんな用件があるのだろう。 薄気味悪さに僅かに身震いしながら、婀霧はアウロラの姿を探す。 そして、その視線を上方に向けた時だった。 視界の端に、薄藍の布が飛び込んでくる